昭和56年2月20日 朝の御理解                 中村良一

御理解 第78節
「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」



神の大恩を知ればとか、神のおかげを知らぬからとかとかありますね。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくるとか。神の大恩を、また、知らぬからと。神の大恩が分かり、神様のおかげを分からせてもらう。そこから、おかげが受けられるのですが、んー、神の機感にかのうた氏子と言うのは、神の大恩を知り、神のおかげをおかげと分からせて貰うて、そこに、神恩報謝の生き方が出来るようになる。そこに、神様の、言うなら、心にかなう生き方が出来るのです。ところが、なかなか、んー、それこそ、分かっちゃおるけれども、出来ないというところがあります。だからその、出来ないというところをも、神様のおかげと分かってくるようになると良いですね。人間ですから、何時もそう、張り詰めたような心の状態ばかりではございません。時には、心の緩みも出て参りますけれども、その緩みとても、やはり、おかげであると分かる。
昔、誰だったかの話の中に、んー、金光様、金光様を唱えながら、夫婦喧嘩をしたという話を聞いたことがある。ね。いうならば、夫婦喧嘩をしたり、家内に手を上げたりするような事は、いけない事なんだ。ね。けれども、その、やはり、双方とも、止むにやまれんで、まぁ、夫婦喧嘩が始まる。まぁ、手を上げたりというような事にもなってくる訳なんですけれども、もう、それこそ、金光様と、金光様を唱えながら、家内を叩く、夫婦喧嘩をする。ね。そんなら、それも、やはり、おかげであると。ね。
今の教祖様のお歌の中に、「これほどの事なるからに、よからんと、心許すに過ち起こる」とある。ね。これくらいの事なるからに、よからんと、心許すに過ち起こる。これくらいなことという事の中にも、神様のおかげがあると分かったら、金光様―と唱えながら、夫婦喧嘩が出来るわけです。ね。そこに、人間の、どうにも出来ない、まぁ、いうならば、業のようなものを感じます。けれどもその、業の中にあっても、ね。金光様―が唱えられる限り、ね。私は、それは、そこに、過ちを起こるというような事にはなって来ないと思う。ね。このくらいな事という事の中にも、神様が、入ってくださらねければならないという事なんであります。ね。神様のおかげを分かり、神の大恩を知っておる。けれども、どうにも出来ないところがあるです。ね。このくらいな事は、良か良かで、それは横着であるけれども、このくらいな事と思うことの中にも、金光様―ち言うかが入ってくださる。ね。勿論、おかげを受け、そして、御徳を受けてまいりますと、そこが、段々、無くなってくることは事実です。金光様を唱えながら夫婦喧嘩をしよった人が、段々、御徳を頂いて、神様のおかげを、いよいよ分からせて貰うて、夫婦喧嘩どころではない。いつもが、夫婦が拝み合うていけれるという行き方。ここはもう、御徳の世界である。ね。けれども、おかげの世界という場合、その事によって、おかげを落とすというような事のないことのためにです。先ずは、おかげを知り、神の大恩を知らなければならない、ね。無事達者で、子孫も続きとありますね。神の大恩を知れば、神の大恩を知れば、無事達者で、子孫も続き、身代も出来、一年まさり、代まさりのおかげを受ける事が出来るのです。ね。だから、神の大恩を、先ず知る信心。神のおかげをおかげと分からせてもらう信心。けれども、そこには、人間の、止むにやまれん、どうにも出来ないといったようなことがある。また、迂闊にという事もありますけれども、ね。そこん所を詫びてゆく。その中にも、うかつの中にも、神様の働きを頂かせて貰えれる。これくらいの事なるからと思うことの中にも、金光様が入ってくださる。ね。そこに、神の大恩を知り、神のおかげを知らなければ、それが出来ない。勿論、それが、何時までも続くという事であって良いと思われませんけれどもね。夫婦喧嘩の話が出ましたけれども、段々、おかげを頂いて、ね。いうならば、殴り合いとか、つかみ合いというような事じゃない。本当の拝みあいが出来るようなおかげ。そこはもう、御徳の世界だという事でございます。どうぞ。